鈴木です。

マイケル・サンデル教授の「これからの正義の話をしよう」を読んでいます。

毎週土曜日、妻子のダンスレッスンの待ち時間に、
ファミレスで読んでいるので、1時間ずつじっくり熟読できます。

正義を決める基準は、3つあり、
「幸福」「自由」「美徳」となっています。

正しいことは、何か1つの基準で判断している、または判断すべきと思っていたので、
目から鱗の視点でした。

本のなかでは、事例がたくさん挙げられていますが、
私なりに理解したので、自分で事例を作って考察してみました。

身近な家庭内のトラブルの話です。

娘が帰ってくるなり、上着をリビングの床に置いて、
夕食を食べ始めたシーンです。

母親は、「通れないから先に片づけて」と注意します。

娘は、「後で片付けるから!」と言い返します。

父親は、「床に服を置くもんじゃない」と叱ります。

この3者の正しいことの判断基準が異なるのです。

母親は、家族みんなのために、最大多数の最大「幸福」を基準とします。
本人がすぐに食べたくても、それによって、迷惑する人もいるなら、
本人は、周りの人に配慮して、先に片づけるべきだという論点です。

娘は、大きな迷惑をかけているわけでもないし、食べ終わったらすぐに片づけるんだから、それまでそのままでも問題ないという考えです。
個人の「自由」を判断基準としています。

父親は、いいとか悪いとかの問題でなく、そもそもマナーとして正しくないから、
それは改めるべきだと考えています。判断基準は「美徳」です。

判断基準が同じであれば、議論は深まります。
例えば、最大幸福を追求するのであれば、どちらの幸福が大きいのかを算出していくこともできるでしょう。
双方の自由が基準であれば、どちらがより自由かという議論は、一定の納得感をもって、収束していくでしょう。

ところが、判断基準が異なる3者の視点は、交わりません。
いわゆる平行線の議論が続くことになります。

一言でいうと、どちらも正しいので、間違っている人がいない訳です。

しかもややこしいことに、その3つの判断基準は、ひとりの人間のなかでも
状況によって、違う基準が発現します。

次の事例は、
父親がベランダで喫煙していることについて話すシーンです。

娘 「ベランダで吸っても、家がタバコ臭くなるから、止めてほしい」

父親 「気をつかってるんだし、タバコくらい自由に吸わせてくれよ」

母親 「自分や家族の健康のことを考えない姿勢が父親として良くない」

これは、娘が「幸福」、父親が「自由」、母親が「美徳」の基準で、
正義を判断しています。

どうも、人間は、3つの判断基準をその場の状況に応じて、使い分けて、
何が正しいかを判断しているようです。

これでは、人間社会でトラブルが起こったりすることは、当然といえば当然ですよね。

それでも、その3つの基準をどれか一つに絞ることもできないという現実もあります。

どの基準も、人間にとって大切だからです。

今、自分たちにできるのは、
自分が正義だと感じたことは、どれか一つの判断基準に基づいて判断した正義であって、絶対的な正義ではないということを理解することなんでしょう。

自分が、
「そんなことして誰が得するのか」
「その行為は社会に反している」
「あなたは迷惑をかけている」
と感じた時、自分は「幸福」で判断しているので、「自由」と「美徳」の視点を受け入れる必要がある。

「そうすることの自由は、保障されてもいいのではないか?」という自由の視点
「そういう生き方も素敵じゃないか」という美徳の視点

自分が、
「あれこれ指示されたくない」
「価値観を押し付けられるのは嫌だ」
「文句を言われたくない」
と感じた時、自分は「自由」で判断しているので、「幸福」と「美徳」の視点を受け入れる。

「みんなの迷惑も考えたほうがいいのではないか」という幸福の視点
「それはマナーとして認められない」という美徳の視点

自分が、
「それは人としてありえない」
「父親としてどうかと思う」
「嘘をつくのは良くない」
と感じた時、自分は「美徳」で判断しているので、「幸福」と「自由」の視点を受け入れる。

「誰がどれくらいメリットを得るのか、またデメリットを受けるのか」という幸福の視点
「どう発言するかは、基本的に、その人の勝手」という自由の視点

こう考えてみると、何か自分が正しいと思って、怒ったりしていることは、
複合的な視点を欠いた一人相撲のようなものなのかもしれませんね。